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かれん誕生
1976年11月1日、へその緒が首に巻きつき難産でしたが2850グラムで誕生。「かれん」と名付けられました。「可憐な女性になるように」「世界にはばたくように」という願いが込められたそうです。
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大のおばあちゃん子
両親共に忙しく、同居していた祖母が母親代わりで、大のおばあちゃん子でした。祖母には着物や洋服を手作りしてもらっていました。躾に厳しい祖母でしたが、政治家を志すことを決めた時は、一番の味方でいてくれました。
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お姉さんぶりを発揮
5歳年の離れた妹の世話を焼くのが大好きな私でした。私のケーキのいちごは大抵、妹の口の中に…
今でも長女気質は変わっておらず、頼られると人一倍頑張ってしまうタイプです。
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小学3年生で、一人アメリカへの旅
小学校3年生の夏。私に人生最初の「冒険」が訪れます。ひとり飛行機に乗って、アメリカのジョージア州サバンナにいる大叔母を訪ねるという挑戦です。津田梅子さんが遠縁にあたることから、チャレンジすることの大切さを教えられてきました。また、小さい時に、肌・目・髪の色、ルーツも異なる人々が世界中にいることを体感できたことは大きな財産になっています。
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高松宮杯でのスピーチ
小学校から高等学校までの12年間は横浜雙葉に通いました。女子校での活動はあらゆることを皆で議論し決断し行動する実践の場で、女性のリーダーシップを学ぶことができたと思っています。中学3年生の時に出場した高松宮杯全日本中学校英語弁論大会では、神奈川県の代表として英語でスピーチを行い、全国から集った仲間たちから大きな刺激を受けました。
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充実の大学生活
大学は国際基督教大学(ICU)へ入学し、自然の中でのびのびとしたキャンパスライフをスタートさせました。同時に、中学時代に出場した高松宮杯(後に高円宮杯)の運営を行うJNSA基金(日本学生協会基金)へ入会し、企画部長としても活動しました。この基金は、先の大戦で戦死した友人との「英語弁論大会を開く」という誓いを果たすべく、敗戦後、一人の青年が立ち上げた組織です。日本の復興のためには「教育」が何よりも大切であるという創始者の思いが込められており、卒業生は幅広い分野で活躍しています。
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米国にて、修士号取得
ICU卒業後、民主主義の勉強を深めるため再び単身アメリカへ。ジョージワシントン大学ポリティカル・マネージメント大学院へ(修士号取得)。将来政治の現場で働くことを目指す仲間たちと研究しながら、米国下院議員の国会事務所や、NHKワシントン支局でインターンとして働きました。カメラの三脚を抱えて現場に先乗りするなど、下積みも経験しました。
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地域メディアなどを中心に、情報発信
帰国直前に起きた9.11米国同時多発テロを目撃した日本人として、ラジオFM BLUE SHONANでの番組や講演活動を始めます。NHK BSのドキュメンタリー番組「ファースト・レディ―大統領選挙を動かす夫人たち―」のコーディネーター、テレビ神奈川の教育番組「教育はてな?」のコーナーキャスター、産経新聞神奈川県版「週刊コラム」の連載などメディアを通じてメッセージを発信してきました。
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学問の分野から、政治を伝える
再びICUにて博士課程に進学し、Ph.D(行政学・博士)を取得。卒業論文のテーマはアメリカ政治におけるレトリカル・リーダーシップについて。政治を学ぶ側から、研究・指導する側へと立場が変わり、大学などでアメリカ政治などの授業を受け持ち、後進の育成に励みました。
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政治家としての道を志す
2008年、後継者指名を受け、神奈川県第17選挙区支部からの出馬を決めました。当時31歳でした。第45回衆議院議員選挙に出馬し、政権交代の波の中でも、皆様のおかげで10万票以上を獲得するも、惜敗。3年3カ月の浪人生活がはじまりました。今思えば、この時間こそが、大きな財産になっています。2012年の第46回衆議院議員にて、初当選を果たす事ができました。